最近、私の研究は非常に興味深い方向に進んでいる。 そして私は神学に行き着いた。
私は現在、記憶力の悪い人たち(失語症、SDAM、ASD)のために活動しています。 私は15年近く、記憶力の悪い人たちのために活動してきた。
私はネガティブな特徴を主張することに疲れてしまったので、マーケティングのちょっとした練習をして、自分のピッチを改善することにした。 私は「完璧な忘却」という表現を思いついた。 私が主張しているのは、完璧な忘却力を持つ人は複雑な問題を解決するのが得意だということだ。
かなりユニークな言葉である。 私が使っている文脈では、私が最初だ。 でも、以前から使われていた。 神の慈悲を表す言葉として使われてきた。
ソーシャル・ジャスティス(社会正義)と世界をより良くすることに非常に興味を持っている私にとって、これは非常に興味深いものだった。 私は、神の慈悲が記憶力の極端に悪い人々に、非常に危機的な形で肉体的に現れているのではないかと疑い、信じるようになっている。
私は敬虔なローマ・カトリック教徒だ。 私は、私たちが生きている時代が深刻な危機にあると心から信じている。 また、私たちがこのような危機に見舞われているのは、故意であれ無意識であれ、神に背を向けているからだとも思う。
パーフェクト・メモリーが偶像化されている今、社会が直面している複雑な問題を解決できないのは偶然ではないと思う。 神はこれらの複雑な問題を解決するための解決策を私たちに与えてくださった。
完璧な記憶力は知性の唯一の基準であり、世界での成功を保証する特質となっている。 記憶力ばかりが発達し、忘却力が発達しなければ、人は機械になるか、もっと悪い獣になると私は信じている。 プログラムも簡単になる。 彼らの生活は本能的なものになる。
これがサタンの意図ではないかと疑い始めている。 私たちを人間たらしめているもの、つまりデザイン/モデル/芸術/哲学の能力は完全に否定され、私たちは彼の奴隷になってしまった。