誰もが心の中で映像を思い描けるわけではない:私たちは皆、美しくユニークな存在

他の人が「心の中で映像を思い浮かべている」と知ったとき、あなたはどんな反応をしましたか?自分はそうではなかった——この衝撃的な発見が、デザイナーのシェーン・ウィリアムズを25年にもわたる「認知の多様性」の探究へと導きました。彼の研究は、私たちがどれほど異なる思考のしかたをしているのかを理解し、それを受け入れることが、忍耐や共感、そして真の受容への扉を開くことを示しています。
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目次

1997年、私は大学でグラフィックデザインを学んでいました。ある授業中、講師が私たちに視覚化のエクササイズを行うよう指示しました。最初に、「目を閉じて、一本の木を思い浮かべてみてください」と言われました。こうしたことを求められたのは、これが初めてではありません。「これを思い浮かべてて」、「あれを頭に描いて」、「心の中で想像してみて」といった言葉は、日常生活の中でもよく耳にするものです。しかし、このとき初めて、「映像で考える」ということに対する自分の思い込みが揺らぎ始めたのです。

映像で考えることは、すべての人に共通することではない

講師が「木を思い浮かべてください」と指示したあと、少し間をおいて「見えましたか?」と問いかけました。暗闇の中で木を思い浮かべようとしていた私は、その言葉に引っかかりを覚えました。その問いには、何か「見えるもの」があって、それを「捉える」までに少し時間がかかるかもしれない、という前提が含まれていたからです。そして私は、人生で初めて次のように考えました。もしかすると、映像で思考するのが一般的なのかもしれない。人によっては、頭の中に本当に木の映像が「見えている」のかもしれない、と。

けれど、私の体験はまったく異なるものでした。頭の中に木が映ることはなく、「木」という概念がぼんやりと浮かんでいるだけ。それが私にとっての「普通」でした。「これを思い浮かべて」、「イメージして」、「頭の中で想像して」といった表現も、すべて比喩的なものだと受け取っていたのです。ですが、このとき初めて、自分と他人ではまったく異なる認知体験をしているのではないか、と疑問を持ち始めました。

その後も授業は続き、講師はさまざまな視覚化の練習を指示しました。その中で私は、他の学生たちが自分とはまったく違う反応をしていることに気づきました。特に隣に座っていた学生は、講師の問いかけに対して非常に積極的かつ具体的に応答しており、明らかに私とは異なる体験をしているようでした。

授業のあと、私はその学生にこう尋ねました。「本当に、頭の中であれ全部が見えてたの? まるで写真みたいに?

うん、全部はっきり見えていたよ」と彼は答えました。

それから私は、身の回りの人たちに「頭の中で映像を思い描くのが普通なのか」と聞いてまわりました。そしてすぐに、多くの人が「そうだ」と答えることを知りました。とはいえ、そう答えた人たちの体験を詳しく聞いていくと、その表現や具体的な内容には個人差があることにも気づきました。

「心の中で映像を思い描く」ことの多様性を理解する

私は、人々が心の中で「何を見ているのか、あるいは見ていないのか」を探るために、まずは非公式ながらいくつかの質問を作成しました。その過程で、思考のあり方には実に多様な違いが存在することに気づき、質問の数も次第に増えていきました。

そして時間をかけて、これらの質問を体系的に整理し、いくつかのカテゴリーに分類するようになりました。2020年以降は、YouTubeの動画ポッドキャストなどを通じて、より公式な形でこの調査を記録し始め、ついには書籍『 Aphantasia and Beyond』として質問内容を公開しました。この一連の質問群は「Discovering Your Mind Protocol(あなたの心を探るプロトコル) 」と名付けており、今もなお、私自身の「心の中でイメージする力」に関する理解の深化とともに進化し続けています。

私はこれまで、年齢や職業、背景を問わず、アファンタジア(心の中で視覚イメージを思い浮かべられない状態)やハイパーファンタジア(極めて鮮明にイメージできる状態)、またその中間にあたる人々とも対話を重ねてきました。はじめは「心の中で思い描く映像」に着目していましたが、調査が進むにつれ、心の中で聞こえる音、香り、味、触覚、感情といった、五感や情動に関する内的イメージも含めて質問の範囲を広げていきました。

多くの対話とリサーチを通じて得られた最大の学びは、「人間の心のあり方は、一人ひとり異なり、驚くほどユニークである」ということです。

これは、私が世界に向けて伝えたい、力強く、そして確信に満ちたメッセージです。

私たちは皆、美しくユニークな存在

あなたは、この世界にたったひとりの存在です。誰一人として、あなたとまったく同じように「内なる感覚」を体験している人はいません。それなのに、なぜ私はこのメッセージを特に強調したいのでしょうか?それは、多くの人が、まさにその逆を「当たり前」のように思い込んでいるからです。人間には、「自分の体験が他人の体験でもある」と自然に仮定してしまう傾向があります。これは、ある意味で人間の本能とも言えるのかもしれません。

私自身、自分が「頭の中で映像を思い浮かべられない」ことに気づいたのは、なんと大学生になってからでした。それまでの20年以上もの間、誰もが自分と同じように「思考している」と思い込んでいたのです。そこに特別な根拠があったわけではなく、単に自分の感覚が「標準」だと疑わなかったのです。

しかし、実際には全く違いました。そして私だけではありません。このテーマ(アファンタジア=心の中で映像を描けない状態)について他人に話すと、誰もが一様に「衝撃を受けた顔」をします。中には、初めてその話を聞いたとき「信じられない」と感じる人も多くいます。心の中に映像を持てる人(ビジュアライザー)は、「映像を持てないなんて信じられない」と思い、逆にアファンタジアの人は、「他人がそんなにリアルに頭の中で画像を見られるなんて想像できない」と感じるのです。

私たちはなぜ、自分とは異なる「心の中の体験」が他人にもあり得ると、なかなか信じられないのでしょうか?なぜ、自分の内的な感覚や思考の仕方を「人類共通のもの」だと、つい思い込んでしまうのでしょうか?

私がアファンタジア(頭の中で映像を思い浮かべることができない状態)に初めて気づいた後、父に「頭の中で映像を見られる?」と聞いてみたことがあります。すると、彼は「もちろん。みんなそうだよ?」と当たり前のように答えました。父は、自分が思考するときに自然に映像を思い浮かべているからこそ、それが「全員に共通する感覚」だと信じて疑わなかったのです。

でも、自分にしか体験できないことについて、なぜそこまで確信を持てたのでしょうか?以前、ある「イメージ化」と「願望実現」を教える自己啓発の講師の音声を聞いたことがあります。その中で彼は、視覚的イメージができない人の存在を、あっさりとこう否定しました。 「私は間違っていません。だって、あなたは特別な人間ではないからです。この地球上のすべての人間が、イメージする力を持っています。

でも彼もまた、自分には確かめようのないことを、あたかも真実であるかのように断言しているのです。

私たちは、自分の心の中で起きていることしか直接体験できません。それなのに、なぜか他人の心の中で何が起きているかを「分かっている」つもりになってしまいます。

そして、多くの場合、私たちは他人をその人自身の経験ではなく、「自分の物差し」で判断してしまいます。たとえば、太っている人を見て「自分は太らないから努力が足りないんだ」と決めつけたり、怒りっぽい人に対して「私は冷静でいられるのに、なぜできないのか」と考えたりします。他人の弱さを、自分の強さを基準にして評価してしまうのです。

でも本当は、他人がどれだけ複雑で繊細な体験をしているのかを、私たちが知ることはできません。そのことを理解することができれば、もっと人に対して寛容になれますし、許す心も育てられるはずです。私がアファンタジアについて学んだことは、「人はみな、それぞれ本当にユニークな存在なのだ」と気づかせてくれました。もし私たちが、全員を同じ枠に当てはめようとするのをやめて、その違いを学び、探求し、受け入れることができたら――この世界は、きっと今よりもずっと優しく、豊かな場所になるでしょう。

「心の中で映像を思い描く」ことは、誰にでも当てはまるわけではない

先ほど、私の父が「誰でも心の中で映像を思い描ける」と信じていたことに触れました。実は彼は、25年以上にわたって教師をしていた人でもあります。そして彼は、「もしこのこと(アファンタジアの存在)を知っていたら、教え方が変わっていたかもしれない」と話してくれました。同じように、他の現職の教師や元教師の方々も、同様のことを語っています。

ある元教師の方は、アファンタジアという概念を初めて知ったとき、「人によってこんなにも体験が違うなんて」と、非常に驚いたそうです。一部の人にとって、頭の中のイメージはまるで映画のように動いて見える一方で、静止画のように見える人もいます。非常に細部まで鮮明に描ける人もいれば、ぼんやりとしか思い浮かばない人、まったくイメージが浮かばない人もいます。また、視覚的イメージではなく、音や匂いなど、別の感覚が中心になる人もいるのです。その方は、文学を教えていた当時、自分が本を読むときの感覚――すなわち、頭の中で情景を思い浮かべながら読む体験――が、学生たちにも共通していると思い込んでいたと話してくれました。「もしあのとき、このことを知っていたら、もっと多様な読み方や感じ方を意識した授業ができたかもしれない」と、少し悔しそうに振り返っていました。

このように、内面での感じ方や思考の仕方には大きな個人差があり、それを理解することは、私たちのコミュニケーションや人間関係に多方面で影響を与えます。それがプライベートな関係であれ、職場や教育の現場であれ、「自分と他人の感じ方は同じではない」という視点を持つことは、より深い理解とつながりを生む大きな一歩になるのです。

認知の多様性に気づかないことがもたらす弊害

私の義理の兄は非常に優れた大工であり職人でもあります。何かを作るときにも、設計図を使わず、すべてを頭の中で組み立てることができるのです。彼は、かつて従業員たちが図面や手順書を必要とすると、かなりイライラしていたと話してくれました。自分と同じように「頭の中で全部描けるはずだ」と思い込んでいたのです。しかし今では、「すべての人が視覚的に考えられるわけではない」ことを理解し、そうした従業員に対してより寛容になったと言います。

私の妻は「ハイパーファンタジア(心の中で非常に鮮明な映像を思い描ける状態)」の持ち主で、細部まで極めてリアルに視覚化できます。私たちの内面の体験がまったく違うことを理解するようになってから、お互いのことをよりよく理解し、以前よりも忍耐強く接することができるようになりました。

以前の私は、妻が大げさに反応していると感じていました。たとえば、私が何か不快な話をすると、彼女は強い嫌悪感を示していました。私にはそれが大げさに思え、理解できませんでした。
しかしある時気づいたのです。妻はそれを実際に頭の中で
見てにおいを嗅ぎ感じ味わってさえいたのです。彼女にとっては現実のような体験だったのです。私にとってはただの言葉でしかなく、もう次の話題に移っていました。このような小さな、しかし本質的な気づきが、私たちの関係をより深く、面白いものにしてくれました。

私のポッドキャストでは、いとこのサラをゲストに招いたことがあります。彼女は非常に視覚的な思考をする人です。彼女にアファンタジアの存在と、「すべての人が視覚的に考えているわけではない」ことを話すと、最初は信じられない様子でした。しかし、会話の終わりには、自分のコミュニケーションスタイルや人間関係において、この無意識の前提が影響していたことに気づき始めていました。

彼女は夫との関係について、こう語ってくれました。「私たちのコミュニケーションはずっと難しかったんです。私は彼に、私の説明や描写を「見て」理解してほしいと思っていました。でも、彼はいつも『ごめん、イメージできない。言ってる意味がわからない』と言うんです。私はそれを、わざとバカなふりをして、やりたくないだけだと受け取っていました 。」

夫との間で起きた、たくさんの言い争いやすれ違いを思い返してみると、この「イメージの仕方の違い」が、実は関係していたのかもしれないと思うようになりました。それが原因のひとつだったなんて、当時は全く気づいていませんでした。もしその時に知っていたら、対応の仕方も全然違ったと思います。これからは、夫にもっと忍耐強く接しようと思います。言葉の選び方や伝え方にも、もっと気をつけるつもりです。たぶん、夫は私と同じようには「物事を見ていない」のだと、今は思えます。ちゃんと謝りたいと思っています。」

別の友人にも、ハイパーファンタジアを持つ人がいます。彼は少年サッカーのボランティアコーチをしているのですが、最近、「何人かの子がプレーを覚えられなくて困っている」と不満を漏らしていました。話を聞いてみると、彼は自分の頭の中でプレイブックを視覚的に思い浮かべて見返すことができるそうです。そしてこう言いました。「もしかしたら、あの子たちは、それができないのかもね。

私は彼に、「その可能性はかなり高いと思う」と伝えました。おそらく、その子たちは視覚的に思い浮かべるという体験を持っていないのです。

彼はそれまで、「怠けている」と決めつけていました。でも今では、もっと別の可能性も考えられるようになりました。私にとっては、それだけで十分な前進です。こうした話をすることには、大きな価値があるのです。教師、上司、部下、コーチ、親、友人――どんな立場にいても、人それぞれに「ものの捉え方」が違うと理解することで、視野が広がります。それは「怠け」や「能力不足」ではなく、ただ単に脳の使い方が違うだけかもしれません。

私は友人のエリスに、「アファンタジアについて知ったことで、人とのコミュニケーションにどんな変化があったか」を聞いてみました。

彼はこう答えてくれました。「人がどうやって物事を考えているのか、純粋に興味を持つようになったんだ。以前だったら、『この人、ちょっと頭が悪いのかな』って思ってしまうような場面でも、今では『ああ、この人は「見え方」が自分と違うんだな』、『使ってる「道具」が違うんだな』って考えられるようになった。前はすぐイライラしていたけど、今はなぜ伝わらないのか、の理由がわかるようになったんだ。もちろん、今でもイライラすることはあるよ(笑)。でも、今はそこに説明がつくんだ 。」

たぶん人間って、「自分の体験が他人にも当てはまる」って、無意識に思い込むようにできてるんだと思う。でももし、親として、リーダーとして、同僚として、夫や妻として「この人はどうやって情報を処理しているんだろう?」、「どう考えて、どう学んでいるんだろう?」って、自然な好奇心を持つことができたら、人生はもっとシンプルになると思う。ちょっとした好奇心で、コミュニケーションは大きく変わるんだよ 。」

「どう考えるか」について、考えたことがありますか?

周りの人たちがそれぞれに美しくユニークであることを理解するだけでなく、自分自身の心がどのように働いているのかを探求し、発見することは、人生を大きく変えることがあります。私たちは生まれた時から自分の思考や心と共にありますが、実はあまり意識を向けていません。ほとんどの人が「どうやって考えているのか」を立ち止まって考えたことがないのです。ただ、自然に考えているだけなのです。

あるインタビュー相手はこう言いました。「あなたからの質問は、自分が今までほとんど意識したことのない内容ばかりです。

自分がアファンタジア(心の中に映像が浮かばない状態)だと知って落胆したり、戸惑ったりする人もいます。それは当然のことですし、違うことに対して不安を感じる人もいます。

私が取材したアファンタジア当事者であるミュージシャンも、自分の創作過程に対する不安を語ってくれました。

私はアファンタジアのグラフィックデザイナーですが、頭の中でデザインを考えることはできません。実際にパソコンの前で作業をしながら形にしていきます。そこで彼女に「作曲も同じような感じですか?」と尋ねると、こう答えました。「 そうですね。 これは自分自身で受け入れようとしていることなんです。私はいつもピアノの前で作曲をします。ベートーヴェンが散歩しながら頭の中で交響曲を作ったという話を聞くことがありますが、私にはそれは無理なことです。「それは自分のやり方じゃない、でもそれでいいんだ」と毎日自分に言い聞かせています。

私は彼女に、「あなたが違うからこそ素晴らしい」と伝えました。彼女は自分のやり方で、見事な作品を生み出し、人生に意味を与えているのです。私たちに必要なのは、もう一人のベートーヴェンではありません。彼女のように、本物で輝かしい創造のスタイルこそが必要なのです。

アファンタジアの理解が教えてくれた、自分らしさの大切さ

私自身にとって、アファンタジアを知ることは大きな救いとなりました。研究して学ぶ楽しみが増えただけでなく、自分がどんな人間で、どのように学び、コミュニケーションをとり、創造しているのかを理解する助けにもなりました。自分にできること、得意なことの理由がわかり、今では自分自身を受け入れ、そのユニークさを大切に思えるようになりました。この気づきは、私だけでなく、多くの人にも同じように、いやそれ以上に役立っていると確信しています。

私の研究からは、心の中の「目」(マインドアイ)は指紋のように誰一人として同じものはないと考えていますが、それでも時々、アファンタジアの人はみんな自分と同じだと思い込んでしまうことがあります。しかし、それも間違いです。中には心の中で音を聞いたり、匂いを感じたり、味を思い浮かべたりする人もいれば、そうでない人もいます。アファンタジア(心の中に映像が浮かばない人)の中には読書が大好きな人もいれば、苦手な人もいます。記憶に困難を感じる人もいれば、そうでない人もいるのです。もう、おわかりでしょう。

大切なのは「自分らしくいること」です。自分の心の働きを探求してください。そしてそれを受け入れてください。あなたが創造する方法で創造し、あなたがデザインする方法でデザインし、あなたが想像する方法で想像し、あなたが問題を解決する方法で解決してください。それは決して間違いではありません。あるべき姿なのです。

私たちは皆、美しくユニークな存在です!

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